誰得雑談(文学)
武田章利(以下「武」):苦手な詩の種類があって、こう、少し達観したような感じで静かに内面世界を描くような、そんなやつ。あ、いえ、私も昔はよく書いてましたが、なんだかそれだとどこまでいっても表面的で冷たい感じしかしないな、と。激しくある必要はないけど、静かだけど熱い感じがほしい。
Dodoko(以下「ド」):わたしはむしろそういうの書きたいけどなあ 現役の血泥まみれ卒業したい(´^∀^`)
武:現役の血泥まみれが大好物なので、す、すみません、賛同出来なくて。。。すみません🤤
とまあ、それは置いておきまして、私は達観したような静けさのなかに滲んでくるペシミスティックな感じが苦手になっちゃったんですけど、例えばどどさんの場合だったら、血泥まみれを経た者にしか出せない優しい静けさみたいなものがあるような気がします。
ド:あー、なるほど とすると、武田さんが苦手なのは「実際は血泥に居たことがない人が、推論で達観して厭世的になってる」感じなのでは?
ヘッセとかはどんなです?わたしは好きですが、実際に血泥を経たのかタダの推論なのかは分かりません(・∀・)
武:ヘッセは僕も好きです。あの人は、なんだか血泥な感じがしますw 上品に綺麗ぶってる感じを見せながらえげつないって印象で。
ド:血泥仲間ヘッセヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪ ちょっと違うかもしれませんが、去年友達と飲んでて仏教の話になったんですよ 友達が「〇宗が好き。所詮人間が何やっても無意味だから、念仏を唱えてれば救われると言ってて素晴らしい」っつってて
武:私、仏教は詳しくないので何とも言えないんですが、お友達のお言葉、私流の注釈を加えさせて頂くとストンといきます。 「所詮(情欲まみれの)人間が何やっても無意味(=虚しい)だから、念仏を唱えてれば(=自分の内の神を探せば)救われると言ってて素晴らしい」
ド:私は「念仏を唱えれば救われる」の前に、求道の過程が要る気がしたんですよね なので「そんな簡単ではコクがない。例えば、何かを突き詰めて努力して、しかもそれは《本当に欲しかったもの》とか《満たされなさ》とかへの渇仰と一体化した努力で、血を吐きながら頑張って頑張って、色んな物を失いながら、できることも出来ないことも全部やって、最後に 《あ、全部無駄だったんだ》と気付くようなプロセスがある方が、 念仏=救い説にコクがあって好き」みたいなことを話してました(・∀・)
武:返信が早すぎました、失礼w 悟りにしても何にしても、やっぱり血泥期ってのは重要だと私も思います。「悪を知らない者に善は語れない」というやつでしょうか。 念仏を唱えるって、本来的には自分の内面をえげつないくらいに掘り下げていく作業だと思うんですよね。だから、決して楽な作業じゃない。
ド:悪を知らないと善は語れない、はちょっとわたしの感覚とちゃうなあ 私は善悪というより有無で、何かがが「有る」ことを希求した結果「無い」ことに気付く、みたいに捉えてます 「何もかも投げ打って求めた対象は最初からなかった」とかすごぉく萌える
川原寝太郎(以下「寝」):横から失礼。 あると信じて希求した後に初めて無いことを知る、という思想は仏教で言えば禅宗に近いのかなと。 十牛図を思い出しました。
ド:十牛図ぐぐったけど私のイメージと近いです! 最後の、子供たちに施しを与えてるとこ、私のイメージだと「祈り」みたいな感じですわ 追求する→何も無い→祈る みたいな
といってこのイメージが何なのか自分でも分かんないですがw
武:なるほど、善悪ではなく有無。 寝太郎さん仰るように禅のような印象ですね。 私は、有ることを求めた結果無いことに気付く、というのは地上世界のことであり、その時、無いと思っていたものが有るようになる、というのもあるかなと思っているので、結果、厭世的にならないんですよね。
ド:あー 武田さん的には「有る」方がポジティブなイメージですか? 私はなんとなく、「無い」方が非人間的でカッコエエと思ってますわ
武:そうですねえ、私はなんだかんだ個体主義的なところがあるんで、全てを捨て去った時にでも残る、無という有がある、って考えちゃいます。あくまで「私」は存在している、でもそれは有としてではないけど、、、といいますか(自分でも?)
ド:もはや言葉の好みのような気がしてきたw なんつうか、個人的な話なんですけどね 近年じわじわと「ネガもポジも同一のモノに見えてくる」みたいな感覚があるんですよね キェルケゴールで言うたら、「絶望は死に至る病である」=希望は死に至る病=希望は生への力=絶望は生への力 みたいな(何)
この悲しくて穏やかで虚しくてキラキラな感じが、私的には「無い」感じなんですわ。説明になってるのかこれww
武:なるほど、確かに言葉の好みかもw どどさんのその「無い」は、私にとっての「有」に近いような気がしてきました。その、キラキラ。。。🤤
うーん、なんか、悲しくて穏やかで虚しい感じがぐっと強まってずどーんと深まると、こう、、、自分のなかになんか変な、無形の塊みたいなの出てきません??
ド:その無形の塊的なモノに関して、「別に見たくねー!どうせ無いし終わり!次行ってみよう!」って思いますwマジで単に疲れてる感じしますわwww
寝:完全部外者視点ですが、武田さんは倫理観を善悪ともに極限まで突き詰めたいヒューマニストみたいな所があって、dodokoさんは人間を突き詰めるのはもう疲れたからその先の景色が見たい、的な差異なのかなとおもいました(こなみかん)。
武:個人的にはすごく分かりやすい説明だと思いました。。。合ってますかね?? あ、いや、、、言われてみると、私はその通りだなと(倫理観、というよりも、私的には人間存在そのもの、と思っているんですが)。
ド:どえりゃあ達見の小並感ですなあwww
すぎさく(以下「す」):横から失礼します。 ゼロを得たことをハッピーエンドと捉えてるか、バッドエンドにしてるかの違いを感じました。 悟ってもどこかでグツグツ煮立ってる業は消えず、それが奥行きや説得力を与えてるという価値観が武田さん(はじめまして✨)。
武:はじめましてすぎさくさん! この件に関してはどどさんと真反対な感じですが、個人的にはそれもなかなかおいしいところです。
す:悟りを得て表面上は無邪気にはしゃいでてもどこかでこんなのは茶番なんだという虚無感があり、その虚無に美しさを見出しているという価値観がドドコちゃんなのかなと。違ってたらすみません。
ド:出たなちんぽの化け物め!!(・∀・)(・∀・)(・∀・)
す:おちんちんびろーーーん!!!!!🍒
ド:そうそう、好みの問題で解釈が違ってるけど、話してるモノの内容はだいたい同じだと思うんですよね そして私はハッピーなオチが嫌いですw「なわけねーだろ」とか思ってしまうw
武:私もそう思います。 そして私は、最後はハッピーエンド派ですw ほら、私の作品、最後はぜーんぶハッピーエンド!
ド:話をややこしくしててワロタ
ド:「ハッピーエンド」とは…w
武:汗しか出ない。。。w
寝:メリーバッドエンドという概念がありまして…たとえ客観的にはバッドエンドでも主人公が主観的に満足ならハッピーエンドであると見なし得るそうですよ。 (名前はバッドエンドですが)
ド:あーー あれってどんなんが正解なんでしょう 村上龍でそれっぽいの読んだことあるんですが、主観がハッピーだから単なるハッピーエンドに見えるんですよね
武:私もそう思います。 私は、登場人物がなんらかの試練や困難を乗り越えて成長に至る(またはその可能性が示される)ことができればどんな結末でもハッピーエンドだと思っちゃうんですよね(その意味で、私の作品はハッピーエンドなんです。あ、バッドエンドも)。
寝:多分ですが「マッチ売りの少女」とか? 客観的には寒さの中で孤独に死んだ可哀想な勤労児童ですが、主観的には大好きなおばあさんと再会できて幸せになれたという。
『アルジャーノンに花束を』もメリーバッドエンドかもしれませんね。 なお世間一般、特に同人界隈では歪んだ形での愛の成就(主に共依存系)がそう呼ばれることが多いようです。
武:ぶる…… スクールデイズも、もしかしてメリーバッドエンド認定なんでしょうか。。。
す:あれは主人公的にはバッドエンドですが視聴者的にはメリーバッドエンドなのでは
寝:wwwww 「悪の栄えたためしなし、因果応報」的な?
そういえば劇場版まどか☆マギカも「QBがほむらちゃんに負けたからハッピーエンドで良し!」という意見が一定数あったような。
す:見る人の主観に依るんでしょうなあ。 共依存関係なんかは「美しい」「尊い」と感じる向きがあるけど、本人たちからしたら自立した方が幸せかもしれないし笑
武:人の感じ方に委ねられる、という妥当なところに落ち着きそうですねw (ちなみに共依存は私的にはバッドエンドですねぇ)
ド:「見る人の主観に拠る」説が正しい気がしますが、そうなるとハッピーエンドバッドエンドっていう単語をすんなり使えないですね 「武田さん的なハッピーエンドは」とか「これはすぎさく的バッドエンド」とか言わんと、語義がみんな微妙にずれるw
武:鋭い指摘ww 確かに、これはむしろ余計にややこしそうですww
寝:ややこしいといえばメリーバッドエンドという概念の周辺に「キャラクターの視点によってハッピーエンドになったりバッドエンドになったりする」という思考がああるようです。 たとえば「泣いた赤鬼」は赤鬼視点ではバッドエンドですが青鬼視点ではハッピーエンド、みたいな。
武:なるほど、その形もありますね。 物語の奥深さをカンジマス。 アニメとか絵本とか昔話とか、そういうものの終わり方しか知らなかった小さい頃、文学作品の終わり方はとても衝撃的だったのを思い出しました。「なんも終わってないけど!?」って感じで。。。
寝:確かに純文学は「詩でもここで切るの難しくない?」というくらい凄い所で幕切れになる作品ありますね。
す:「泣いた赤鬼」今ストーリーググりました😢泣ける… ある人にとって幸せなことがある人にとって不幸というのが折り重なってドラマが複雑で美しくなるんでしょうね
ド:わたしもこれ知らんかったです なんだこの話wwwwwwwww
武:僕は幼稚園の時に読んだような。子供ながらになんかすっごいショック受けるんすよw
寝:互いを思いながら互いの考える幸せの形が違う故に一緒にいられなくなる…ある意味で泣けるドラマの王道かもしれません。
ド:いや、、、これ青鬼が何がしたかったのかが謎過ぎる
寝:物凄い下世話な例えですが、一目惚れした女性との会話のきっかけがない親友に対して「俺が痴漢の振りして襲い掛かるからお前は偶然通った振りをして撃退しろ」…的な?
す:青鬼は自分の居場所がなくなっても赤鬼に幸せになってほしかったのでは😢自己犠牲の精神😢
ド:ええ…いくらなんでも非現実的過ぎる… Wikiであらすじ読むと「イヤミなのかな?」とか思いました 1ミリもメリットがなくて労力使うなんて有り得ない この青鬼がそういうドMなら別ですが
寝:自己犠牲は自己満足の同義なので。 それこそ客観的にor赤鬼から見て青鬼に何の得も無くても青鬼が満足してるならそれは彼自身にとってハッピーエンドなのです。 そしてそれは二人が再会しない事でのみハッピーエンドとして成立する。会っちゃうとお互いの考えの違いが炙り出されて多分喧嘩になる。
ド:「ハッピーエンド」がゲシュタってきたwww
寝:真面目な話、ハッピーエンドという概念自体が近年崩壊しているか、元から虚構だった可能性が高いです。 桃太郎だって鬼視点ではバッドエンドの物語になる事は芥川龍之介が100年も前に指摘済みですし。
す:青鬼は赤鬼大好きだから仕方ないという前提で読む話かと😢奉仕の精神よりもむしろ自らの自己犠牲で赤鬼が悲しむことに思い至らなかったことの方に青鬼の狂気を感じて悲しい😢
寝:そこなんですよね。「自分がいなくなったら赤鬼が悲しむ」この視点が青鬼に欠如している。 一方通行の危うい善意が生んだ悲劇。
武:すごいw 泣いた赤鬼、僕は小さな頃から知っていましたが、まさか今になってこんなに熱く議論展開されるとは思いませんでしたw
寝:昔話の考察は何だかんだで盛り上がりますねー。 それだけの懐の深さを持った物語だからこそ年月に耐えて残っているのか…。
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